あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

司馬遼太郎『燃えよ剣(下)』

 

★あらすじ(下巻の範囲から)

新選組幕臣に取り立てられる。それを聞き、思想の違いから伊東は新選組を脱退し、御陵衛士(ごりょうえじ)を結成。古参の藤堂平助も伊東についていった。御陵衛士は勤王派として薩摩の尖兵となり、新選組と対立したため、近藤らは伊東の暗殺を決意。近藤邸に呼び出し、帰り道で伊東を暗殺。さらにその死体を油小路に放置し、これを引き取りに来た藤堂を含む御陵衛士隊士を切り捨てた(油小路事件、1867年)。

同年、慶喜大政奉還を行い、朝廷に政権を返上した。同日には薩長に倒幕の密勅が下りていた。朝廷は徳川家に辞官納地を要求。慶喜は大阪に兵力を集めた。幕臣となっていた新選組も幕府方として戦うこととなった。

鳥羽・伏見の戦い(1868年)では、新選組会津藩兵とともに奮戦する。手負いの近藤や病気の沖田(沖田はこのまま前線に復帰することなく病死する。)に代わり、土方が指揮をとるが、洋式装備の薩長軍に惨敗。旗揚げ以来の古参の井上源三郎が戦死した。大阪に撤退すると、既に将軍慶喜会津藩主容保は江戸に逃げていた。やむなく新選組も海路、江戸に撤退した。

江戸の新選組は、幕命により、「甲陽鎮撫隊」と称し、新政府軍に先んじて甲府を攻めることとなった。復帰した近藤が指揮を執るが、先着していた板垣退助率いる新政府軍に惨敗(勝沼の戦い)。撤退したメンバーのうち、永倉、原田は江戸に残り、近藤、土方は流山で再起を図ることに。江戸が開城されると、流山に来た新政府軍に近藤が投降し、処刑された。

一人残された土方は旧幕府方として奮戦する。江戸から脱出した大鳥圭介率いる旧幕府陸軍と合流した土方は、宇都宮城を一度は落とし、その後は仙台に行き、榎本武揚率いる旧幕府脱走艦隊と合流した。奥州同盟が瓦解した後は、蝦夷地に移る。

旧幕府軍は函館を攻略し、榎本を首班とした独立政権を作る。土方らは、新政府軍の最新鋭の軍艦「甲鉄艦」を奪取するため、「回天」を率いて宮古湾で強襲をかけるも、失敗(宮古湾海戦)。死期を悟った土方は、京都からの隊士の数少ない生き残りである市村鉄之助に遺品を託し、函館を脱出させた。

蝦夷地に新政府軍が上陸すると、土方は二股口での防衛線を指揮する。土方は新政府軍を食い止めたが(二股口の戦い)、大鳥の指揮するもう一方の前線が破られ、土方もやむなく撤退。ほかの函館政権参謀が函館への籠城を主張したのに対し、土方は出戦を主張。新政府軍の函館総攻撃を迎え撃ち、戦死したのだった。

 

★感想

新選組新選組の芯はどこにあったか。最後は旗本になったけど、なんというか、幕末のぽっと出の成り上がりで、先祖代々の幕府への恩があるわけでもない。むしろ、最初は清河の攘夷のスローガンで集まった人たちだし、京で活動する中で、伊東らの華々しい攘夷思想に影響されたメンバーもいる。だが、最終的に、近藤、土方といった中核メンバーは、そっちにはいかなかった。彼らの行動原理は何なのか。

「はじめ京にきたときには、幕府、天朝などという頭はなかった。ただ攘夷のさきがけになる、というだけであった。ところが行きがかり上、会津藩、幕府と縁が深くなった。しらずしらずのうちにその側へ寄って行ったことであったが、かといっていまとなってこいつを捨てちゃ、男がすたる。近藤さん、あんた日本外史の愛読者だが、歴史というものは変転してゆく。そのなかで、万世に易らざるものは、その時代その時代に節義を守った男の名だ。新選組はこのさい、節義の集団ということにしたい。たとえ御家門、御親藩譜代大名、旗本八万旗が徳川家に背を向けようと弓をひこうと、新選組は裏切らぬ。最後のひとりになっても、裏切らぬ」(p80)

土方と近藤がこういう会話をしていたのかはわからないけど、まあ、していたのかもしれない。そういうことなのかもしれない。

 

最後に一つ、やや荒れそうな話題を検討してみる。著者のいわゆる「明るい明治」的な歴史観は、幕末の描き方にも反映されているのか、ということだ。この問いは今後も念頭においておきたいが、とりあえず今思っていることを書いてみる。

まず、司馬遼太郎歴史観司馬史観)というのは、よく、「明るい明治」と「暗い昭和」の対比である、と言われる。明治維新を成し遂げた明治人は合理的であり、近代国家建設を目指して坂を上っていったが、日露戦争に勝ったあたりでおかしくなりはじめ、昭和初期には不合理な精神論が跋扈するようになり、太平洋戦争へと突き進んでいってしまった、という具合だ。「坂の上の雲」は、確かにそういうトーンだったように思われる(はるか昔に読んだので明確な記憶はないが。)。203高地に無謀な突撃を繰り返す乃木大将が、昭和的な、不合理な精神論者の先駆けとして描写されていた。ような気がする。

それで、それはいいんだが、そういう歴史観は、幕末の描き方にも反映されているのか?というのが、ここでの問題だ。

俺は、今のところあまりそれは感じていない。新政府に倒された幕府方はそんなに悪者として描かれてはいないし、幕府側が政治的に敗北した原因を不合理な精神論に求めるような(つまり、幕府側を大本営とか乃木大将のような司馬史観でいう「昭和的」なものとして描くような)描写はあまりない。大政奉還の構想した政治体制についても、少なくとも否定はしていないし、「幕府じゃなくて新政府が勝ったから今の日本がある」的な論調の話は特に出てきていない。

つまり、明治政府をageるために、何か他のものをsageているようには、今の俺は、あまり感じていない(新政府側の人の作品を読んだらまた感想が変わるかもしれないが。)。

ただ、1点、少しだけ、気になるところがある。今、「最後の将軍」、「燃えよ剣」に加えて、短編の「王城の護衛者」を読んだんだが、会津戦争の描写がほとんどないということだ。慶喜や土方は、直接かかわっていないから書いてない、ということなのだろうが、会津藩主容保の短編の中でも、ほんの3行くらいしか記述がない。単に稿が足りなかっただけかもしれない。が、ほんとはちょっと、書きたくない、という心理があったのだろうか?維新期の会津藩の悲劇は、主としては、ハシゴを外した慶喜が悪い、というトーンであり(それはまさにそのとおりなのだと思うが。)、まあどちらかといえば、薩長にヘイトが向かないような書き方になっているような感じはしなくはない。

まあ、これは単に、俺の考えすぎかもしれない。ちょっと意地悪く読み過ぎているかな。忘れてくれ。