あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

司馬遼太郎『最後の将軍』

 

お前ら、好きな作家っているか?

俺は、これを聞かれたら、「庄司薫」って答えてるんだ。へーだれそれ、で話が終わるからね。(たまに、ああ、あの、サリンジャーのパクりね、と仕掛けてくる奴がいるが…)

本当は、司馬遼太郎なども好きなんだが。公言すると面倒になることがあるので、自分からは言わない*1。そもそも、ものの好き嫌いなんてのは、他人と語らうようなことじゃないんだよ。心の中でじわっと感じて、たまにこういうところに独り言を残せば十分なのだ。俺はそう思う。

 

 

それで、慶喜ですが。まず、一応、幕末のお勉強をする。おれは学生の頃日本史を取っていなかったので、間違いがあるかもしれない。先に謝っておく。すみません。

慶喜は御三家の一つ、水戸徳川家の斉昭の子として生まれ、聡明ゆえに将軍候補と目されて一橋家の養子に入る。

1853年の黒船来航以降、幕府は弱腰の開国政策を続け、これに対し、長州などを中心に、朝廷を推して異人を追い出す尊王攘夷論が流行していた。

病弱な13代将軍家定には子がなく、跡継ぎを巡って慶福(のちの家茂)を推す南紀派と慶喜を推す一橋派が対立した。慶喜は、尊王攘夷論の理論的支柱である水戸学を有する水戸人であり、攘夷派のホープと目されていたので、この対立はそのまま佐幕派と勤王派の対立となっていた。1858年、大老井伊直弼は、家茂を将軍とし、日米修好通商条約を勅許をえずに調印した後、一橋派を処罰・謹慎とし、攘夷派を多数処罰した(安政の大獄)。弾圧は強い反発を招き、1860年、水戸脱藩浪士により井伊は暗殺された(桜田門外の変)。

その後、皇妹和宮が家茂に嫁ぎ、公武合体政策が試みられる。薩摩藩孝明天皇を担ぎ、1862年、慶喜を将軍後見、同じく攘夷派であった松平春嶽を政事総裁とする勅命を出させた。幕府はこれを容れ、慶喜は上洛した(この後大体京にいた。)。幕府は、会津松平容保京都守護職に置き、京都の治安護持に当たらせた。容保は新選組を設立し、攘夷党を取り締まった。

さらに朝廷は、今度は長州藩の後ろ盾で、家茂を京に呼びつけて攘夷の実行を迫り、幕府はこれをしぶしぶ受け、諸藩に攘夷の実行を(一応)命じた。

京では1863年8月18日の政変により、長州勢力が追い出され、薩摩、会津が勢力を握った。慶喜はいわゆる四賢候(越前藩松平春嶽土佐藩山内容堂宇和島藩伊達宗城薩摩藩島津久光)に守護職容保を加えた合議制をとろうとするが、モメてすぐ瓦解。慶喜は容保と、その弟の桑名藩松平定敬との合議制で京の政局を指導した。(「一会桑体制」とかいうらしいが、どのくらい人口に膾炙したワードなのかわからない。)

1864年、長州の志士は、8月の政変の失地を回復するために、京に火を放ち、混乱に乗じて天皇を攫う計画を立てた(ホントか?)が、事前に新選組に察知され阻止された(池田屋事件)。これを受け、長州軍は京に攻め上ったが、天皇の長州追討の勅令が出、慶喜指揮のもと、薩摩や会津等の兵により撃退された(禁門の変蛤御門の変)。幕府軍は第一次長州征伐を発令し、一度は長州を恭順させた。

なおも反抗的な態度をとる長州に幕府は攻め込むが(第二次長州征伐)、このときにはすでに薩摩は開国・倒幕に舵を切っており、薩長同盟の密約を結んでいた。1867年、家茂が病死し、慶喜が将軍になり、近代化を進めようとするが、長州征伐の失敗や佐幕派孝明天皇の死去により幕府の命運は尽きた。薩長が武力倒幕を目指したのに対し、 1868年、慶喜は先んじて朝廷に政権を返上してしまった(大政奉還)。

慶喜は、朝廷に政権運営能力はなく、結局幕府が実権を握り続けるだろうと考えており、そうなりかけた。しかし、薩長が朝廷をして王政復古の大号令をなさしめ、幕府側の人員抜きの新政府を樹立するとともに、徳川家に官位と領地を返上すること(辞官納地)を命じた。

こうなると幕府側は黙っているわけにはいかない。会津兵を中心に京を攻撃するが、薩長側に錦の御旗が立ち、幕府軍は敗れる(鳥羽伏見の戦い)。なおも大阪城には薩長軍をしのぐ軍勢が待機していたが、朝敵とされた慶喜は江戸へとさっさと逃げ帰ってしまう。新政府軍が勢いを増して東征軍を起こすと、慶喜勝海舟を交渉に当たらせ、江戸城無血開城した。松平容保、定敬兄弟をはじめとする佐幕派幕臣の一部は奥州に移り、新政府相手に抵抗を続けることとなった。慶喜は移封になった駿府に隠居し、余生を趣味に費やして全うしたが、松平春嶽をはじめとした旧幕臣には頑として会わなかった。

 

 

それで、慶喜の評価について。俺はふだん、あんまり他人を評価しないようにしてるのだ。賢いとか馬鹿とか、かっこいいとかブスとか。そのものさしを自分に向けられるのがイヤだからな。まあ、だけど、この小説の感想を書く以上は、慶喜という人間の評価に触れざるを得ない。やるしかない。月並みに。

有能か、無能か、というと、無能ではないだろう。有能とみてよいのではないか。

ラストエンペラー、幕府を滅亡させた人、ということになっているが、慶喜にバトンが回ってきたときには、もう、幕府はどうにもならなくなっていた。慶喜の行動は、どちらかというと、幕府の衰退・滅亡という避けがたいイベントを、どう軟着陸させるか、という方向に向いていたように思われる(これはまさに司馬史観というか、この小説の見方、ということかもしれないが。)。ターニングポイントはやはり、鳥羽伏見の後に大阪城籠城を選択せず、江戸にさっさと逃げてしまったところなのかな。

おそらく、ここで籠城を選択していたら、戦術的には勝機は十分あったのではないかと思われる。だが、そのあと、どうなるだろう。既に薩長軍には錦の御旗が出ており、徳川家は朝敵である。まあこの時代の勅令なんて朝令暮改だから、京都を奪還すればそこはなんとかなるとしても、徳川家や佐幕派の諸藩の力を糾合しても、薩長連合軍を完全に打ち滅ぼすことはおよそできないだろう(長州1国だけでも倒せなかったのだから。)。そうすると、日本が徳川家と薩長の東西2勢力に分かれて、内戦が長期化する可能性がある。そうなったら、欧米諸国の介入は免れないだろう。オスマン、ムガル、清朝。多くの有色人種の現地政権が、内部抗争に付け込まれて侵略されたのである。

慶喜がそういうことを考えていたかはわからない。ただ弱腰だっただけかもしれない。だが、結果として、慶喜がさっさと恭順したことは、その後の近代国家建設にはプラスに働いた、とみてよいのではないか。

著者によれば、

慶喜は、現世のなまのあの顔見知りの京都の公卿、大名、策士どもに恭順するのではなく、後世の歴史にむかってひたすらに恭順し、賊臭を消し、好感をかちとり、賊名をのぞかれんことをねがった。(p260)

とのことである。そういう面もあったかもしれない。

それからあと、幕府滅亡ののちは完全に隠居して、旧幕臣などとほぼ全く会わなかった、というところも、評価してよいと思う。これも同じで、清の溥儀をはじめとして、いちど滅んだ王族が反政府勢力の顔として立てられることもよくあるが、慶喜がそういう運動に関わることはなかった。

しかし、かわいそうなのは幕臣や最後まで幕府についてきた諸藩である。戦の最中に、大将が真っ先に逃げてしまったわけだ。見捨てられた彼らは、新政府に恭順して貧困生活を受け入れるか、東北に逃げて虚しい抵抗を続けるか、しかなかった。会津や函館で散った忠臣たちには、恨まれてもやむを得ないのかな、という気はする。

 

俺は、この小説からは、ラストエンペラーとしての悲哀をあんまり感じなかった。滅びゆく徳川家の代表者として、家の利益を守るために頑張ったけど、だめだったので、潔く降伏した。歴史上与えられた仕事を全うした人物、というイメージをもった。もちろん、薩長にはただならぬ思いがあるんだろうが、別に非業の死を遂げたわけでもなく、30代の前半で仕事をやりきって、悠々自適に趣味に耽る隠居生活を送っているし、あんまり後味が悪くない。今はやりのFIREってやつじゃん。

 

 

 

 

*1:面倒なのはおっさんや年寄りが多い。司馬史観がどうとか、本当の歴史じゃないとか。そんなこと知ってるっつーの。なぜ奴らはああも「知らんだろうから教えてやるよ」のスタンスで来るのか。でも、俺も、はたから見るとそんな感じなのかな。あーあ、参った参った。